5月10日~12日の期間で宮城県石巻市にある日本共産党の震災・救援対策センターへ私・富田たくと金子けんたろう区議、山田耕平区議、青年1名の全4名で支援ボランティアに行ってまいりました。
■宮城県石巻市への支援ボランティア
今回、日本共産党杉並区議団として宮城県石巻市の震災・救援対策センターへ支援団を送ることが決定し、私たち新人議員の3名(金子けんたろう、山田耕平、富田たく)がその第一弾として派遣されることになりました。
もともと、選挙が終わったら、当選してても落選してても、必ず支援ボランティアに行ってこよう、どんな仕事でもいいから現地に行き少しでも力を使いたいと思っておりましたので、泥かきでも支援物資の運搬でも瓦礫撤去でもなんでもできるように、ヘルメットから長靴、手袋、作業着などを集め現地へ行く準備を行いました。
・野菜とお米と義援金をもって
現地に行く前日に支援センターへ連絡し「今、一番必要なものは?」と確認してみると「とにかく、野菜」との回答が返ってきました。明日出発という状況だったので、みなさんから野菜を集めるのも難しいと判断した私たちは、事務所のワゴンを使って、地域の八百屋さんへ向かいました。
八百屋の店主さんに事情を説明し、キャベツ、人参、玉葱、ジャガイモなど日持ちのする野菜を見繕ってもらい、ダンボールへ詰めてもらいました。その量は、小さめの箱ですが全部で15箱ほど。店主さんからは「こっちのきゅうりは原価でいいよ」とサービスもしていただきました。
今回は急な支援団の派遣だったのですが、派遣を知った多くの方々から、一週間で50万円近くの募金をお預かりいたしました。また、募金以外にもお米や紙おむつなど多くの支援物資が寄せられました。みなさまのご協力本当にありがとうございました。お預かりした募金と救援物資は、支援センターに到着後すぐに、所長・三浦一敏石巻市議へ手渡すことができました。
野菜などの食料は、避難所ではなく自宅で被災されている方々へ小分けにしてお渡ししております。津波が押し寄せた地域ではスーパーや小売店がやっと営業を再開し始めたばかりで、車がないと食料などの調達が困難な状況が続いています。そういった買い物困難者への配達を支援センターのスタッフが行っているとのことです。避難所にいらっしゃる方々だけが支援を必要としているわけではないのです。
今後も支援物資や救援募金を継続的に届けて行きたいと思います。
・津波の被害は・・・
救援物資をセンターへ手渡した後、被災状況をぜひ見てほしいと現地のスタッフに言えわれ、車で津波に襲われた地域へ行ってきましたが、被害の状況は本当に酷く、海辺の漁港は全て瓦礫と化していました。
波にもまれた乗用車が踊るようにひっくり返ったり逆立ちした状態で放置されていました。また、多くの漁船が陸地へ打ち上げられ、かろうじて形が残っている建物に漁船が突き刺さっていたりと、本当にここが町だったのかも疑うほどでした。殆どの建物は倒壊し、大きな建物の鉄骨だけがひしゃげた状態で残ったりと、津波の勢いが相当なものだったことが想像できます。
現在は道路上の瓦礫は撤去が進み、車や自転車での移動は可能ですが、信号も街頭も全てなくなっているので、夜間の交通はかなりの危険が伴うでしょう。要所に自衛隊や警察官、警備員の方々が立ち、車両の誘導を行っていました。
瓦礫の粉塵と、打ち上げられたヘドロからの異臭が酷く、通常の防塵マスクをしていても喉が痛くなるほど。倒壊した建物からアスベストが飛散している危険性も指摘されておりますが、地元の方々はほとんどマスクをしておらず、今後の健康被害が心配されます。
津波の被害もいろいろあるようで、支援センターが建っている場所も津波が来たそうですが水の勢いは弱く、じわじわと水位が上昇したそうです。そういった地域ではほとんどの建物は倒壊せずに残ったそうですが、1階にあった家電や家具などは全て使い物にならない状況だそうです。
・任務は避難所で被災者の声を聞くこと
さて、実際の支援活動なのですが、当初予想していた瓦礫撤去や泥かきなど肉体系の作業ではなく、石巻市の東隣に位置する女川町の避難所の方々から生の声を聞くことなりました。
というのも、共産党の女川町議会議員である高野ひろし町議から直々に被災者へのヒアリングのサポートを依頼されたのです。高野町議も他の方々と同様に津波で家を流され、避難所で避難生活をしている状況でした。
女川町は津波で殆どの港町が壊滅的な打撃を受けた地域で、被災した方々は16箇所の避難所で現在も避難生活をしております。震災発生から2ヶ月が経過し、女川町としての復興計画のたたき台ができ、町議会で各議員にその資料が配られました。
依頼されたヒアリング作業は、復興計画について住民の方々がどのような意見・要望が有るかを直接聞く事が目的となります。
・いざ避難所へ
約700人の方々が避難生活をしている女川総合体育館に行き、ヒアリングを開始。多くの方々からお話をお聞きしました。
50代女性「今必要なものって言っても、救援物資とかたくさん届けてもらってるしね、みんな大変な状況だから自分だけ我がまま言えないよ。」
80代女性「家族は皆無事だったけど家が流されたよ。孫を学校に通わせなければいけないので、息子夫婦は仙台の親戚の家へ行った。私はこんな歳で、仙台の親戚に迷惑をかけるのも、向こうに行って気を使うのも嫌だったから一人で避難所に残ったよ。本当は一緒に行きたかったけど・・・」
70代男性「若いやつらに仕事と家を早く用意し上げなきゃ。お上は何してるのかね。こんな体育館だったら若い夫婦が抱っこして寝る事もできねぇべ。仮設住宅の申し込みも始まってるけど、俺は最後でいいから申し込みしてねぇよ。復興、復興っつったて、まず仮設住宅に入んなきゃそんなこと考えられねぇよ。行政は一度も説明も何も来てね。町長や町議が何考えてんだか全然わかんね。」
さまざまなお話をお聞きしましたが、総じて仮設住宅への入居や仕事などの生活再建の要求が多く、今の避難所での生活を抜けられないと町の復興計画まで考えられないとの声が大半をしめていました。
2ヶ月にもおよぶ厳しい避難生活、大きな体育館での数百人単位の生活、プライバシーもなく家族で今後の話をする場もそうそう作れない状況。まだまだ、生活再建も始まったとは言い難く、まずは必要とされている仮設住宅を早期につくり、希望者全員が入居できるよう行政が対応しなくてはなりません。
つづく・・・
レポ^ト拝見しました。ご苦労様でした。
[...] 前回の被災地支援の様子はこちら ⇒ ブログ【支援ボランティア レポート】 [...]